つまずきの石として来られる神様

2023-08-16
つまずきの石として来られる神様

多くの人々は、神様がこの地に登場される時、想像もできないほどの栄光に満ちた姿で来られると考えています。しかし、聖書には、神様がとても平凡な姿で来られるため、人々は見極めることができず、かえって神様が彼らには罠となり、落とし穴になるだろうと預言されています。

この聖霊時代に、神様は人の姿で再臨なさるという預言があります。では、どうすれば、人々の想像とは異なる姿で私たちのもとに来られる神様を見分けて、受け入れることができるでしょうか?

密かに来られる神様

時代劇「水戸黄門」。長い間放送され、多くの人が一度は観たことのある番組ではないでしょうか。江戸時代の水戸藩主・徳川光圀をモデルとし、隠居して日本各地を漫遊し行なった世直しを描いた物語です。民情を探るために正体を隠して密かに地方を巡行し、悪政を行う大名・代官がいれば悪政を糾す。本来ならば、多くの家来たちを連れて豪華な駕籠に乗っていくこともできますが、身分を明かして歩けば、民情を正確に探ることができないため、敢えて、みすぼらしい姿で平民のように扮して視察に出かけるのでした。

神様が燦爛たる栄光と権能の姿のままで来られるのではなく、私たちと同じ人の姿で来られるのも、これと同じ理由からです。昔、イスラエルの民は神様の御声を聞いただけでも、「神様がお語りになれば、わたしたちは死んでしまいます」と訴えるほど、非常に神様の姿を恐れました(出20:18‐21)。そのような神様が、本来の栄光の御姿で来られたら、この世の中で神様を信じない人、従わない人がいるでしょうか。全ての能力と権勢を隠され天使よりも低い姿でこの地に来られて、神様の真の民を正しく選別されるのが、神様の御計画です。ですから、このような神様の御心を悟り、聖書の預言に耳を傾けなければなりません。

預言に沿って2000年前、イスラエルの地に人の姿で来られた神様がイエス様です。では、聖書は、イエス様、すなわち肉体をまとって来られる神様の姿についてどのように預言していたでしょうか。

イザヤ書 53章1~2節 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のようにこの人は主の前に育った。見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

イザヤ書53章は、私たちの罪を背負って苦難に遭われるイエス様についての預言です。イエス様が来られる約600年前に記録されたイザヤ書には、乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のようであり、見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない、つまり人々の期待とは異なるみすぼらしい姿で神様が来られると預言されていました。

ヘブライ人への手紙 2章5~9節 ・・・また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。あなたは彼(イエス様)を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、・・・ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。

預言どおりに、神様は、わずかの間、天使よりも低い姿でこの地に来られました。神様は、本来の栄光の姿を完全に隠してこの地に来られたのです。しかし、人々は自分の考えにとらわれ、天使よりも低い肉身の姿だけに注目し、人の姿で来られた神様を殴り、頬を叩き、十字架にまでつけてしまったのです。

 

神様はつまずきの石、妨げの岩

2000年前、預言を信じず、神様は栄光に満ちた姿で出現されるべきだと言い張った人々はどうなってしまったのでしょうか?

イザヤ書 8章13~15節 万軍の主・・・主は聖所にとっては、つまずきの石/イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩/エルサレムの住民にとっては/仕掛け網となり、罠となられる。/多くの者がこれに妨げられ、倒れて打ち砕かれ/罠にかかって捕らえられる。

結局、あれほどまでに神様を信じていたユダヤ人たちが、預言通り、神様につまずいてしまったのです。なぜ神様が、神様を信じる人々のつまずきの石、妨げの岩、仕掛け網になり、罠になられたのでしょうか?神様が私たちと全く同じ人の姿で現れ、輝かしい風格もない、普通の人よりも優れた点がない姿で生きていかれたからです。

実際、何一つ好ましいところのない、みすぼらしい姿で来られたイエス様は、多くの人々のつまずきの石になられました。

ペトロの手紙一 2章4-8節 ・・・主(イエス様)は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。・・・信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じていない者たちにとっては、・・・また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。

シオンの生きた石はイエス様です。神様が人の姿で来られる時、どのような家庭で、どの地域にお生まれになるのか、どこから福音を始められ、どのような御業をなさるのか、聖書にはすでにイエス様についての数多くの預言がありました。それにもかかわらず、多くの人々は預言通りに来られたイエス様を信じることができず、躊躇なくあざけり、殴り、神様の前では恐れ多くてできないような傲慢な言動をしたのです。聖書の預言を信じなかった彼らは、人の姿で来られた神様に完全につまずいてしまったのです。

 

人の姿で来られた神様を見分ける方法は聖書の預言のみ

このような歴史は、今日を生きる私たちのための教訓です。聖霊時代に生きる私たちは、聖霊時代の救い主を受け入れてこそ救いを得ることができます。

キリスト初臨の時のユダヤ人たちは、イエス様の肉身的な生活や環境だけに目を向けた結果、人の姿で来られた神様を信じることができませんでした。彼らが見たものは、イエス様の家族、環境、生活、出身地など肉身的なものばかりでした。イエス様がキリスト(人の姿で来られる神様)であることを証しするものは、肉身的な生活や環境ではありません。唯一、聖書の預言だけです。

ヨハネによる福音書 5章39節 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたし(キリスト)について証しをするものだ。

イエス様が、キリストを見分ける方法を教えてくださったにもかかわらず、多くのユダヤ人は聖書の預言に心を留めず、目に見える肉身的な生活と環境にだけに目を向けて判断し、イエス様を受け入れることができませんでした。

それでは、今日、キリストが再臨される時代に生きる私たちは、何を通して人の姿で来られる神様を見分けることができるでしょうか?聖書の預言を通して見分けるべきです。聖書の預言ではなく、キリストの肉身的な面だけを見て判断してしまうと、2000年前のユダヤ人のようにキリストにつまずき、排斥することになります。

マタイによる福音書 11章2~6節 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

キリストを正しく見極めて悟る人は、幸いであると言われました。今日も同じです。この時代、預言に従って、“霊(聖霊)”と花嫁として、この地に父なる神様と母なる神様が来られました。エロヒム神様も、信じられない者にはつまずきの石と妨げの岩になりますが、信じる者には尊いかなめ石になるでしょう。

神様の教会が信じる安商洪様と母なる神様がキリストであられることは、聖書に数多く預言されています。信仰の岩であられるキリスト安商洪様と母なる神様の上に、正しい信仰を立て、確かな救いを受けられることを願います。