パンとぶどう酒の祭司メルキゼデク
2023-04-06
メルキゼデク。旧約聖書に登場する人物で、神様の祭司です。聖書を信じ、神様を信じ、救いを願う人であれば、必ず彼について調べてみなければなりません。このメルキゼデクこそが、神様を探し出すためのキーパーソンだからです。
人として来られる救い主
聖書には、イエス・キリストが、信じる者にとっては「尊いかなめ石」になるが、信じない者にとっては「つまずきの石、妨げの岩」になると記録されています(1ペト2:4~8)。どんなに尊く高価な宝石であったとしても、それに気付けず、価値がわからなければ、邪魔な石でしかありません。ではなぜ、使徒たちのようにイエス様を神様として受け入れた人々がいた反面、多くのユダヤ人たちのように、イエス様を排斥してしまった人々がいたのでしょうか。
ヨハネによる福音書 10:33 ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」
全知全能なる創造主の神様が、肉体を持ってこの地にいらっしゃった方が、まさにイエス様でした。(『聖三位一体』について参照)しかし、多くの人々は、神様が「人として」いらっしゃったので、神様だと悟ることができず、受け入れることができませんでした。
当時は排斥され、十字架にかかられたイエス様でしたが、現在は多くの人々が、イエス様を救い主として信じています。では、イエス様がもう一度この地にいらっしゃったら、果たして今日のわたしたちは、その方を神様だと正しく見分けることができるでしょうか。
パンとぶどう酒は神様の証し
使徒パウロは、イエス様を「メルキゼデクと同じような大祭司」だと証ししました。
ヘブライ人への手紙 5:8~10 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
メルキゼデクとは、旧約聖書に登場した神様の祭司です。なぜイエス様を「メルキゼデクのような祭司」と表現したのでしょうか。メルキゼデクが登場する場面を見てみましょう。
創世記 14:18~20 いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡されたいと高き神がたたえられますように。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。
普通、旧約の祭司たちは、羊や山羊など獣の血を流して神様に祭祀をささげました。しかし、このメルキゼデクだけは、パンとぶどう酒を用いて祭祀をささげました。「パンとぶどう酒」。これがメルキゼデクの最大の特徴です。聖書を解釈するうえで、旧約は影、新約は実体とみなします。このメルキゼデクという人物もまた、新約の実体を表す影なのです。
マタイによる福音書 26:26~28 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
イエス様が弟子たちと過越祭を守っている場面です。イエス様が登場なさる以前、過越祭は子羊をいけにえとして守っていました。しかし、イエス様は過越祭をパンとぶどう酒で守られ、新しい契約の過越祭を立ててくださいました。旧約時代、メルキゼデクが他の祭司たちとは異なり、パンとぶどう酒で、アブラハムに肉的な祝福を祈ったように、イエス様も、パンとぶどう酒で、私たちに永遠の命の祝福を祈ってくださいました。(参照『過越祭』)つまり、メルキゼデクは、後に現れるイエス様を表す影、預言的な人物だったのです。
そして、このメルキゼデクの実体が、まさに神様であられると証しされています。
ヘブライ人への手紙 7:1~3 このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。
メルキゼデクには「生涯の初めもなく、命の終わりもない」とあります。被造物には必ず造られた「初め」があります。「生涯の初めもなく、命の終わりもない」というのは、この方は創造主の神様であられるという意味です。パンとぶどう酒を持って来られたメルキゼデクの実体であるイエス様は、まさに聖書が証しする神様であられます。「パンとぶどう酒」これが、神様を見分けるための証しです。
容易に説明できないメルキゼデク
メルキゼデクの実体は、イエス様です。しかし、使徒パウロは、イエス様がメルキゼデクの実体であることを証ししながらも、そのことについては説明しづらいと記録しています。
ヘブライ人への手紙 5:8~11 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。
メルキゼデクも「パンとぶどう酒」。イエス様も「パンとぶどう酒」。一体どこが説明しづらいというのでしょうか。実は、メルキゼデクには、パンとぶどう酒以外の特徴もあります。もう一度先ほどの句節を見てみましょう。
ヘブライ人への手紙 7:1~3 …メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。
メルキゼデクには、「父もなく、母もなく」「系図もない」とあります。この点がまさに、パウロが、イエス様がメルキゼデクの実体であると説明しづらかった理由です。
⑴父もなく母もない
メルキゼデクには、父も母もいないとありますが、父も母もなく、この地に生まれてくる人はいません。この御言葉は、霊的に解釈しなければなりません。イエス様は、 神様の御心を行う人、つまり、神様を信じる信仰を持っている人を、兄弟姉妹、母と認めると仰いました(マタ12:50)。つまり、父も母もないというのは、肉の両親が神様を信じる信仰を持っていないという意味です。
ところで、イエス様の肉の両親であるヨセフとマリアは、神様を信じていた人々でした。
⑵系図もない
聖書で言う系図とは、イスラエルの系図です。メルキゼデクは、系図もない。つまり、イスラエル人ではない異邦人だということです。
しかし、イエス様はイスラエルにお生まれになり、イスラエルの系図に名前が記録されています(マタ1:1)。
イエス様がパンとぶどう酒を持って来られたメルキゼデクの実体であることは確かですが、この2つの点が、初臨のイエス様にはあてはまりませんでした。そのため、パウロが「イエス様はメルキゼデクの実体であられるが、容易に説明できない」と言ったのです。
メルキゼデクは、将来現れる神様についての影、預言的人物です。聖書の預言は必ず成就されます。2000年前に成就されなかった条件が残っているということは、イエス様がこの2つの条件を成就なさるために、もう一度この地にいらっしゃる、つまり再臨なさるということを意味しています。実に、旧約のメルキゼデクの預言は、再臨までを見通したものだったのです。
ヘブライ人への手紙 9:28 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。
聖書には、2000年前にわたしたちの罪のために十字架にかかられたイエス様が、二度目、つまりもう一度現れると預言されています。イエス様は、霊の状態では、全地を満たす神様であられて、いつもわたしたちと共におられます(マタ28:20)。「二度目」と言うことができるのは、「一度目」来られたように、肉体を持ってこの地にいらっしゃるからです。イエス様は、メルキゼデクの預言を完全に成就なさるために、必ず再臨なさいます。
神様の証しはパンとぶどう酒~再臨~
二度目この地に来られる再臨イエス様も、やはり「パンとぶどう酒」を持って来られなければなりません。なぜなら、メルキゼデクはパンとぶどう酒の祭司だからです。また、残りのメルキゼデクの預言を成就なさるために、「父も母もなく」つまり、肉の両親が神様を信じない不信仰な家庭で、「系図もない」つまり、イスラエル人ではなく異邦の国にお生まれになられなければなりません。
メルキゼデクの実体として、このすべての預言を成就なさった方がいれば、わたしたちはその方をどなただと見分けなければなりませんか。まさに、「生涯の初めも、命の終わりもない」神様です。
イザヤ書 25:6~8 万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。/それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。/主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし/死を永久に滅ぼしてくださる。/主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
神様が、良い肉と古い酒で祝宴を開いてくださるとあります。そして、その祝宴で「死を永久に滅ぼしてくださる」言い換えれば、「永遠の命をくださる」と仰いました。聖書66巻の中で、永遠の命の約束が込められているぶどう酒は、新しい契約の過越祭のぶどう酒しかありません。また、「古い酒」とありますが、口語訳聖書では「久しくたくわえたぶどう酒 」と訳されています。2000年前、初臨のイエス様が立てられた過越祭は、AD325年ニカイア宗教会議によって廃止されてしまいました。それ以降、誰もそのぶどう酒を飲むことができなくなってしまったため、「久しくたくわえた」と表現したのです。このイザヤ書の御言葉は、神様が廃止された過越祭を回復してくださるという預言です。
そして、実際に、新しい契約の過越祭を回復してくださった方、わたしたちに永遠の命が約束されたパンとぶどう酒を持ってきてくださった方が、安商洪様です。安商洪様は、メルキゼデクの実体として、残りの2つの預言も成就なさいました。肉の両親が神様を信じない不信仰な家庭で、またイスラエル人ではない異邦人として、東の国である韓国にお生まれになりました。では、メルキゼデクの預言を成就された安商洪様は、どなたでしょうか。
イザヤ書 25:9 その日には、人は言う。/見よ、この方こそわたしたちの神。/わたしたちは待ち望んでいた。/この方がわたしたちを救ってくださる。/この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。/その救いを祝って喜び躍ろう。
先ほどのイザヤ書の続きの句節です。久しくたくわえたぶどう酒で、死を永遠に滅ぼしてくださるその方、つまり、新しい契約の過越祭を回復してくださるその方が、わたしたちの神様であられるという御言葉です。過越祭を回復してくださった安商洪様は、メルキゼデクの実体であられ、再臨イエス様、聖書が証しする「生涯の初めも命の終わりもない」神様であられます。
人類が待ち望んでいた神様が、救いを携えていらっしゃいました。わたしたちは、2000年前のユダヤ人たちと同じ過ちを犯してはいけません。神様の証しである「パンとぶどう酒」で、肉体を持って来られた神様を正しく見分けて、永遠の命の祝福を受ける私たちになりましょう。
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