「死ぬ法」から「生きる法」へ

2023-04-17
「死ぬ法」から「生きる法」へ

いつの時代も、神様に聞き従う者だけが救いに至ることができます。神様は人類を救うため、人の姿でこの地に来られ、「生きる法」を教えてくださいました。これに聞き従えば、救われて天国に行くことができ、逆らえば、死と滅亡が訪れます。「死ぬ法」の内にいる人類に授けられた「生きる法」は何か調べてみましょう。

人類は神様に逆らい死ぬ運命となった

昔、アダムとエバという夫婦がいました。二人はエデンの園で幸せに暮らしていました。禁令を破るまでは…

創世記 2:15〜17 主なる神は人(アダム)を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。 主なる神は人に命じて言われた。 「園のすべての木から取って食べなさい。 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

神様はアダムとエバに一つの法を与えられました。それは、善悪の知識の実を食べると、死ぬという法です。この法を犯さなければ永遠に生きることができましたが、知っての通り、二人は善悪の知識の実を食べ、死ぬ運命となりました。では、アダムとエバは、なぜ死ぬようになったのでしょうか。善悪の知識の実に毒があったのでしょうか。

創世記 5:5 アダムは九百三十年生き、そして死んだ。

もし、善悪の知識の実自体に毒があったのなら、その後すぐ亡くなったはずです。けれど、アダムは九百三十歳まで生きました。これによって、アダムの死因は、食べた実の毒ではなく、神様の命令に逆らったという不従順の罪だったことがわかります。これはただの神話ではありません。アダムとエバが神様の御言葉に従わなかったことで、世の中に罪が入り、その時以来、わたしたち人類は死から逃げられなくなってしまいました。アダムとエバの不従順から始まった死が、すべての人を支配したのです。

人類に生きる法を授けるため来られたイエス様

神様は、そんな死ぬ法に囚われた人類を憐れに思われ、救われようと、人の姿となり、この地に来られました。

ヨハネによる福音書 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

神様であられるイエス様が、死を免れられない人類に、死ぬことのない永遠の命を授けに来られたのです。けれど、人々は、イエス様を正しく見分けられず、蔑み、更には十字架につけるという罪を犯しました。

ヨハネによる福音書 16:7〜9 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、

イエス様は「わたしを信じないこと」が罪だと言われました。彼らは、死ぬしかない人類を生かすために来られた神様を排斥するという、あまりにも愚かな罪を犯したのです。わたしたちも、人の姿で来られた神様を信じなければ、決して永遠の命を受けることはできません。

では、なぜ神様は人の姿となってこの地に来られたのでしょうか。

ローマの信徒への手紙 6:23 罪が支払う報酬は死です。

わたしたち人類は皆、死を免れることができません。なぜなら、わたしたちの罪は、死という代価を払わずには消えないからです。罪を償うために死んでしまうのなら、救いもわたしたちには無意味となってしまいます。ですから、罪のゆえに死の道を歩むわたしたちが生きるためには、罪を犯していない他の人が身代わりになる必要があります。

列王記上 20:42 預言者は王に言った。「主はこう言われる。『わたしが滅ぼし去るように定めた人物をあなたは手もとから逃がしたのだから、あなたの命が彼の命に代わり、あなたの民が彼の民に代わる。』」

わたしたちは皆罪人なので、この問題はわたしたちには決して解決できないことでした。そこで、罪のない神様が人の姿でこの地に来られ、十字架に掛かられ、わたしたちの身代わりとなられました。

マルコによる福音書 10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。

神様であられるイエス様の大いなる犠牲と深い御恵みによって、人類に生きる道が開かれたのです。そのイエス様を信じず、排斥することは、神様の愛と犠牲を無下にする行為にほかなりません。ですから、イエス様を信じないことが罪だと言われたのです。アダムの不従順の罪から始まった死を、イエス様が死に至るまで従順なさり、生きる道へと変えてくださったのです。

ローマの信徒への手紙  5:19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

では、イエス様は、具体的にどのような身代わりとなられたのでしょうか。

生きる法はイエス様の犠牲で立てられた新しい契約

コリントの信徒への手紙一 5:7 キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。

イエス様は過越祭の小羊として、わたしたちの身代わりとなり、わたしたちの罪の代価を支払われました。

ルカによる福音書 22:15、19〜20 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。… それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。

旧約時代、長子を滅ぼす災いが下されたとき、過越祭を守り行ったイスラエルの民の家庭は、過越祭の生贄の羊が代わりに犠牲となったことで、難を逃れました。長子は死なずに、生きることができたのです。同じように、罪ゆえに死を免れ得ないわたしたちも、新しい契約の過越祭を守り行えば、イエス様の犠牲の恩恵を受けて、死なずに生きることができます。ですから、新しい契約の過越祭こそが、死ぬ法の中にいる人類を救われる「生きる法」です。ではなぜ、過越祭が生きる法なのでしょうか。

ヨハネによる福音書 6:53〜54 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。

イエス様の肉と血は、死んでいたわたしたちに、永遠の命をくださいます。イエス様の肉と血を食べも飲みもしない者は、死ぬ法の中にとどまるため、命を持っていません。つまり、わたしたちは元々、生きていない、命のない存在だったのです。そのようなわたしたちを生かすため、人の姿で来られた神様が授けてくださった生きる法が、過越祭です。

ところで、聖書には、キリストの肉と血にあずかる過越祭を守るためには、必ずバプテスマを受けなければならないと記録されています。このバプテスマも過越祭と同じく、生きる法です。バプテスマが生きる法であることを調べてみましょう。

コロサイの信徒への手紙 2:11〜13 あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、

バプテスマは、キリストと共に葬られ、また、共に復活させるとある通り、イエス様の十字架の死の犠牲と復活にあずかる儀式です。罪の中にいて死んでいたわたしたちを生かしてくださるものであるため、バプテスマも過越祭と同様に、生きる法であり、新しい契約の掟です。新しい契約には、死ぬ法の中にいるわたしたちに命をくださるため、人の姿で来られ苦難を受けられた、イエス様の尊い犠牲が込められています。

神様は、アダムから始まった不従順の罪により死ぬしかなかったわたしたち人類を、どれほど愛されたがゆえに、新しい契約を立てられたのでしょうか。わたしたちは、人の姿で来られた神様を信じ、愛と犠牲で立ててくださった生きる法を守り行わなければなりません。

生きる法である新しい契約に込められた祝福

では、生きる法である新しい契約を守る者には、どのような祝福をくださるのでしょうか。

ローマの信徒への手紙 8:1〜2 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。

イエス様と結ばれている者は、もう決して罪に定められることはありません。命をもたらす霊の法則(生きる法)である新しい契約が、罪と死の法則から解放したからです。よって、新しい契約を守り行う者は、死ぬ存在ではなく、永遠の命を授かり、救いを受ける存在になります。

ルカによる福音書 20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。

もはや死ぬことはない者とは、新しい契約を守って、永遠の命を受けた者たちのことです。神様は、新しい契約を守る者に、天国の約束をくださいました。

ヨハネの黙示録 21:1、4 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

新しい天と新しい地は神様が人類のために準備された天国です。そこは悲しみも嘆きも労苦もなく、日々喜びと幸せに溢れるところだと言われました。では、誰が天国に行けるのでしょうか。もはや死はないところなので、いつかは死ぬ存在の、死ぬ法に囚われている者は、決して入ることができません。唯一、生きる法である新しい契約を守って、永遠の命を得た者だけが行くことができるところです。死に至るまで従順であられたイエス様の犠牲に感謝し、新しい契約を守り行う者のみ、永遠の命を得て天国に入る資格を得るのです。

 

【関連記事】

・自由の法、過越祭