人はなぜ死ぬのか~人類の罪~

2024-01-19
人はなぜ死ぬのか-人類の罪

人はなぜ死ぬのでしょうか?誰しもが一度は考えてみたことがある問題だと思います。幼い頃に、『死』というものの存在を認識するようになり、それが怖くて何日も『死』について考えた、という人は少なからずいるでしょう。しかし、結局納得のいく答えを得ることができずに、いつの間にか考えることをやめて、自分の人生には『死』というものがないかのように生きてきたのではないでしょうか。身近で誰かが亡くなれば、またしばらくは考え、答えの出ない問題に妥協しながら生きる・・・。聖書では、人類の死について、明確に答えを教えてくれています。

 

天の罪のために死ぬ

聖書では、人が死ぬのは罪のためだと記されています。

ローマの信徒への手紙 6章23節 罪が支払う報酬は死です。・・・

「罪が支払う報酬」つまり、「わたしたちが犯した罪の代価」が死だということです。この世に生まれて、死なない人はいません。つまり、わたしたち人類は皆、死ななければ償うことのできないほどの罪を犯したのです。わたしたちが、いつ、そのような死ななければ償い得ない大きな罪を犯したのでしょうか?この地に生まれてからでしょうか?

聖書には、天で罪を犯して、この地に追い出された天使の記録があります。まず、ティルスの王の記録を見てみます。

エゼキエル書 28章11~14節 主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、ティルスの王に対して嘆きの歌をうたい、彼に言いなさい。/主なる神はこう言われる。/お前はあるべき姿を印章としたものであり/知恵に満ち、美しさの極みである。/お前は神の園であるエデンにいた。/あらゆる宝石がお前を包んでいた。/ルビー、黄玉、紫水晶/かんらん石、縞めのう、碧玉/サファイア、ざくろ石、エメラルド。/それらは金で作られた留め金で/お前に着けられていた。/それらはお前が創造された日に整えられた。/わたしはお前を/翼を広げて覆うケルブとして造った。/お前は神の聖なる山にいて/火の石の間を歩いていた。

ティルスの王は、かつて火の石の間を歩いていたケルブ(天使)でした。知恵に満ち、宝石で飾られた美しさの極みであった天使が、なぜ、この地に人間として生まれ、ティルスの王として生きることになったのでしょうか。

エゼキエル書 28章15~17節 お前が創造された日から/お前の歩みは無垢であったが/ついに不正がお前の中に/見いだされるようになった。/お前の取り引きが盛んになると/お前の中に不法が満ち/罪を犯すようになった。/そこで、わたしはお前を神の山から追い出し/翼で覆うケルブであるお前を/火の石の間から滅ぼした。/お前の心は美しさのゆえに高慢となり/栄華のゆえに知恵を堕落させた。/わたしはお前を地の上に投げ落とし/王たちの前で見せ物とした。

彼は、美しさのゆえに高慢となり、不正が満ち、罪を犯すようになったので、この地に追い出されました。天で罪を犯し追い出された天使の魂が、人間として肉体を持って生まれ、ティルスの王になったのです。バビロンの王の記録も見てみます。

イザヤ書 14章4、12~15節 そのとき、あなたはバビロンの王に対して、この嘲りの歌をうたう。/ああ、虐げる者は滅び/その抑圧は終わった。・・・ああ、お前は天から落ちた/明けの明星、曙の子よ。/お前は地に投げ落とされた/もろもろの国を倒した者よ。/かつて、お前は心に思った。/「わたしは天に上り/王座を神の星よりも高く据え/神々の集う北の果ての山に座し/雲の頂に登って/いと高き者のようになろう」と。/しかし、お前は陰府に落とされた/墓穴の底に。

バビロンの王は、天で反逆罪を犯してこの地に追い出されました。バビロンの王もこの地に生まれる前は、天の天使でした。では、この二人だけに該当する話でしょうか。この二人の前世は、この地上に住むすべての人の前世を示すものです。わたしたち人間は、もともと栄華に満ちた天で生きていた天使たちでした。しかし、罪を犯して天から追い出されたため、この地に人として生まれたのです。

 

わたしたちの故郷は死のない天国

わたしたちの魂は、天から来ました。つまり、わたしたちの魂の故郷は天国です。

ヘブライ人への手紙 11章 16節 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。

聖書では、わたしたちの故郷が天国であり、聖書に登場する信仰の先祖たちも、天の故郷を熱望していたと記されています。また、わたしたちの故郷である天国には、死がありません。

ヨハネの黙示録 21章1、4節 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。・・・彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

新しい天と地、つまり天国は、死のないところです。わたしたちは本来、死のない天国で生きていました。また、冒頭で見たローマの信徒への手紙には、わたしたちの罪は死ななければ償うことのできない罪だと記録されていました。つまり、わたしたちは天で死刑に値する罪を犯したので、死のない天国からこの地に追い出され、死ぬしかない人生を生きるようになったというわけです。

 

罪が赦されて天国に帰る

では、どうすれば、死のない天国に帰ることができるでしょうか?罪によって、この地に追い出され死ぬようになったので、その罪が赦されれば帰れます。しかし、天で犯した罪については、 私たち自身ではどうすることもできません。なぜなら「罪の代価が死」だからです。罪が赦されるためには、死ななければならないのですが、自分が死んでしまえば、たとえ罪がなくなったとしても、わたしという存在もなくなってしまうのに、何の意味があるでしょうか。それで、わたしたち人類の救いのために、イエス様がこの地に来られました。

ローマの信徒への手紙5章7~9節 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

キリストイエス様((『聖三位一体について』 参照 )が、天の罪人である私たちの代わりに十字架にかかられ、犠牲になり、死んでくださいました。 また、イエス様の血によって、わたしたちが義とされた 、つまり、罪が赦されたとあります。では、どうすれば、イエス様の死、イエス様の犠牲の血の力に与ることができるでしょうか?それがまさに、新しい契約の過越祭です。

マタイによる福音書 26章19、27~28節 弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。・・・杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

新しい契約の過越祭には、イエス様の犠牲の血が込められています。天で死に値する大きな罪を犯したわたしたちは、この過越祭を守ってこそ、罪が赦されて、故郷である天国に帰ることができます。

わたしたちは、本来、悲しみも嘆きも労苦もない栄華に満ちた天国で、永遠に幸せに生きていたはずでした。しかし、その幸せを壊したのは、わたしたち自身でした。この地で生きている人間が死ななければならないのは、自ら償いきれない罪のためです。一度死刑と確定した者の罪が、赦されることなどあるでしょうか。霊的罪人である私たちのために、神様が犠牲になられ、天国に帰る道を開いてくださいました。人生の本質を悟り、神様の御前に進み出て、共に天国への道を歩まれることを切に願います。