十字架のない教会

十字架のない教会

わたしたち、神様の教会に十字架はありません。神様は偶像崇拝を禁じられました。偶像崇拝とは、「何かの物体」を神様に見立てて、信仰の対象として崇拝することです。十字架を立てて崇拝することは、神様が忌み嫌われる偶像崇拝にほかなりません。

 

天地を満たしておられる神様

 

全世界には、神様を信じ信仰生活をしている人がたくさんいます。いつもは神様を信じていないという人でも、苦しいとき、辛いとき、自分の力ではどうすることもできない問題にぶつかったときに、神様を求め、祈る人もいるようです。

 

ところで、わたしたちが信じている聖書の神様は、どのような神様なのでしょうか。

 

誰かが隠れ場に身を隠したなら

わたしは彼を見つけられないと言うのかと

主は言われる。

天をも地をも、わたしは満たしているではないかと

主は言われる。

 

エレミヤ書 23:24

 

聖書の神様は、天地万物を御言葉で創造された創造主の神様であられ、全宇宙を満たしておられる神様です。それで、イエス様も昇天され、天に帰られる前に弟子たちにこのように仰いました。

 

あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 

マタイによる福音書 28:20

 

神様は全宇宙を満たしておられ、いつもわたしたちと共におられる方です。ですから、わたしたちが困ったとき、うれしいとき、悲しいとき、いつどんな時でも、どこででも、神様にお祈りすれば、その祈りは必ず神様の耳に届きます。

 

偶像崇拝を忌み嫌われる神様

 

創造主であられる全知全能なる神様が、いつもわたしたちと共にいてくださり、祈りを聞いてくださり、導いてくださるのに、「何らかの物体」を信仰の対象として、祈る必要があるでしょうか。それで、神様は偶像崇拝を禁止され、忌み嫌われました。

 

彼らは木に向かって、「わたしの父」と言い

石に向かって、「わたしを産んだ母」と言う。

わたしに顔を向けず、かえって背を向け

しかも、災難に遭えば

「立ち上がって

わたしたちをお救いください」と言う。

お前が造った神々はどこにいるのか。

彼らが立ち上がればよいのだ

災難に遭ったお前を救いうるのならば。

ユダよ、お前の神々は

町の数ほどあるではないか。

 

エレミヤ書 2:27~28

 

旧約のイスラエルの民たちは、神様の戒めに反して、偶像崇拝にふけっていました。自分たち人間が手で造った木や石でできた偶像を神々だと言いながら、崇拝していたのです。真の救い主であられる神様が、いつも共にいてくださっていたにもかかわらず、愚かにも物に向かって拝んでいたのです。

災難に遭ってから、神様に助けを求め、祈りをささげたところで、神様はその祈りを聞いてくださいませんでした。結局、この後、イスラエルの民は神様の呪いを受けて、バビロンに滅ぼされてしまいました。

 

十字架も偶像である

 

このように、神様は偶像崇拝を忌み嫌っておられます。ところで、現在、教会の象徴となっている十字架はどうでしょうか。実は、十字架も偶像に含まれるのです。

 

あなたたちは偶像を造ってはならない。彫像、石柱、あるいは石像を国内に建てて、それを拝んではならない。わたしはあなたたちの神、主だからである。

レビ記 26:1

 

神様が偶像崇拝を禁じられ、偶像崇拝とはどうのようなものなのか詳しく教えてくださっている御言葉です。彫像、つまり、何かを彫って造った像。石柱、石でできた柱。石像、石で作られた像。これらを造って拝むことが偶像崇拝です。十字架も、石や木や金属などを彫って造った像であり、石で造れば、石柱、石像ではありませんか。聖書の教えと照らし合わせてみると、十字架が偶像であることは明らかです。

 

しかし、他の神々を拝むわけではなく、イエス様の十字架の犠牲を心に留め、真の神様を思い、仕えるためなのだから、十字架を立てて、十字架に向かって拝んでも差し支えないと思う人もいるでしょう。それについて、十戒の二番目の掟を見てみましょう。

 

あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。

 

出エジプト記 20:4~5

 

神様を信じる者であれば、誰もが知っており、また、当然守るべきだと考えられてる十戒。その十戒の二番目の掟です。神様は「上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。 」とはっきりと仰いました。神様を信じ、仕えるうえで、どのような形であれ、何か物を造って仕えることはできません。イエス様が犠牲になられた死刑道具であった十字架という形も、例外ではありません。たとえそれが神様を思ってのことであっても、所詮は人間の考えであって、神様の御心ではありません。

わたしたちが心に留めるべきことは、イエス様の十字架の犠牲であって、十字架そのものではありません。十字架は、神様の忌み嫌われる偶像です。十字架に向かって拝んだり、十字架を見ながら神様を思っても、神様はその祈りを聞き届けてはくださいません。むしろ、救いではなく、憤りと呪いの対象になってしまいます。十字架を立てている教会で、救いを受けることはできないのです。

 

神様の御心が何であるか、どこが真理の教会なのか知らなければなりません。神様は祭りを守るシオンにおられ、シオンの民の祈りであれば、いつどこにいても耳を傾けて聞き届けてくださいます。むなしい偶像崇拝から脱し、真の神様に祈りを聞いていただける者、救いを受けることのできる者になりましょう。

 

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