真の神様を正しく見分けるべき理由とそのための真理

2023-03-06
真の神様を正しく見分けるべき理由とそのための真理

この地には多種多様な神々が存在していますが、聖書の神様は「わたしをおいてほかに神があってはならない」と戒められました。神様はなぜ、「他の神を崇めず、わたしだけに仕えなさい」と言われたのでしょうか。

 

神様が定められた第一の戒め

 

その意味を正しく知るために、まず、イエス様の御言葉を調べてみましょう。

 

マタイによる福音書 22:35〜38 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。

 

イエス様は、律法の専門家からの質問に対し、「真の神様だけに100%仕え、愛すことが一番大切な第一の戒めである。」つまり、十戒の第一の戒め「わたしをおいて他に神があってはならない」を守ることであると答えられました。わたしたちにこのような戒めをくださり、神様と他の神々とを完全に区分される、明確な理由は何でしょうか。

その理由は、真の神様だけが、わたしたちを救ってくださり、天国に導いてくださる方だからです。

 

救いは真の神様だけがくださる

 

エレミヤ書 11:12 ユダの町々とエルサレムの住民は、彼らが香をたいていた神々のところに行って助けを求めるが、災いがふりかかるとき、神々は彼らを救うことができない。

 

ここで、ユダとエルサレムの住民が香をたいていた神々とは、神様以外の他の神々のことです。しかし、これらの神々は、どんなに奉っても、救う力を持たないものだと書かれています。そもそも、何をもって、救われたと言えるのでしょうか。

聖書に記録された「救い」とは何を指すのでしょうか。

 

ヘブライ人への手紙 9:27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、

 

命をおびやかす病気が治ったり、死んだ人が生き返ったりしたら、人々は「救われた」と言うでしょう。けれど、人はいつかは必ず死を迎えます。それは、誰もが決して抗えない事実です。人は死んだ後、どこに行くのでしょうか。

 

ヨハネの黙示録 20:12〜14 わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。…海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。

 

わたしたちは、肉体の命が尽きた後に、玉座におられる神様の御前に立ち、行いに応じて裁きを受けます。この地での生き方によって、魂の生死、つまり天国と地獄の道のどちらかに進むことになります。ですから、神様を正しく見分けて、天国に導いてくださる真の神様に仕えなければならないのです。

ではどうすれば、肉の世界にいるわたしたちが、神様を正しく見分け、真の神様に仕える者として、認めていただけるのでしょうか。

 

神様から認められたヨシヤ王が守った祭り

 

聖書の記録の中で、神様に「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神様を愛した」と認められた人物がいます。彼の業績を通して、どのようにすれば神様に仕えた者として認めていただけるのか、その答えを探していきましょう。

 

列王記下 23:24〜25 ヨシヤはまた口寄せ、霊媒、テラフィム、偶像、ユダの地とエルサレムに見られる憎むべきものを一掃した。こうして彼は祭司ヒルキヤが主の神殿で見つけた書に記されている律法の言葉を実行した。 彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。

 

ヨシヤ王は、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王」と神様に認められた人物です。彼はモーセの律法に完全に従ったことで、神様に喜ばれ、認められました。

では、このモーセの律法とは、何を指すのか、少し前の句節を見てみましょう。

 

列王記下 23:21〜23 王はすべての民に命じて言った。「この契約の書に記されているとおり、あなたたちの神、主の過越祭を祝え。」 士師たちがイスラエルを治めていた時代からこの方、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われることはなかった。 ヨシヤ王の治世第十八年に、エルサレムでこの主の過越祭が祝われた。

 

ヨシヤ王は、過越祭を守ることで、神様だけを愛し慕う者として、「後にも先にも彼のような王はいない」と称えられました。つまり、イエス様の言われた最も重要な第一の戒めを守った者として認められたのです。ですから、わたしたちも、過越祭を守ってこそ、神様を正しく見分けて仕えることができるのです。

では、なぜ過越祭を守ることで、真の神様を見分けて、第一の戒めを守ることになるのでしょうか。

 

過越祭と第一の戒め

 

第一の戒めに関する御言葉を調べてみましょう。

 

申命記 6:4〜9 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。

 

マタイによる福音書22章で、イエス様がおっしゃった「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」は、申命記のこの御言葉を引用されたものです。この第一の戒めを、しるしとして手と額に結び付けなさいと言われました。

ですが、過越祭についても同じ御言葉をくださっています。

 

出エジプト記 13:8〜9 あなたはこの日、自分の子供に告げなければならない。『これは、わたしがエジプトから出たとき、主がわたしのために行われたことのゆえである』と。 あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない。主が力強い御手をもって、あなたをエジプトから導き出されたからである。

 

イスラエルの民は、過越祭を守ったその日の夜に、奴隷生活をしていたエジプトを出発しました。つまり、エジプトから導き出されたときに行われたことは「過越祭」です。その過越祭を、手と額に付けて、しるしとしなさいと言われました。

つまり、最も重要な第一の戒めは、過越祭を指していたのです。

 

十戒が宣布される場面からも、第一の戒めと過越祭の関係を調べてみましょう。

 

出エジプト記 20:1〜3 神はこれらすべての言葉を告げられた。 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

 

神様は、「わたしが過越祭を守らせて、イスラエルの民をエジプトの奴隷生活から導き出したではないか。だから、わたしをおいてほかに神があってはならない」と言われ、過越祭と第一の戒めが、切っても切れない関係であることを教えてくださいました。言い換えれば、過越祭を守らずには、第一の戒めを守ることができないのです。

では、なぜ過越祭を守らなければ、第一の戒めを守れないのでしょうか。

 

他の神々を滅ぼし、真の神様を見分ける過越祭

 

再び、ヨシヤ王の歴史を調べてみましょう。

 

列王記下 23:3〜4、22〜25 それから王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。民も皆、この契約に加わった。 王はすべての民に命じて言った。「この契約の書に記されているとおり、あなたたちの神、主の過越祭を祝え。」 王は大祭司ヒルキヤと次席祭司たち、入り口を守る者たちに命じて、主の神殿からバアルやアシェラや天の万象のために造られた祭具類をすべて運び出させた。彼はそれをエルサレムの外、キドロンの野で焼き払わせ…士師たちがイスラエルを治めていた時代からこの方、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われることはなかった。 ヨシヤ王の治世第十八年に、エルサレムでこの主の過越祭が祝われた。 ヨシヤはまた口寄せ、霊媒、テラフィム、偶像、ユダの地とエルサレムに見られる憎むべきものを一掃した。こうして彼は祭司ヒルキヤが主の神殿で見つけた書に記されている律法の言葉を実行した。 彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。

 

ヨシヤ王の治世第18年に、過越祭が祝われました。そのとき、エルサレムから一掃されたものは、バアル、アシェラ、口寄せ、霊媒、テラフィムなどの、他の神々でした。ヨシヤ王は、過越祭を守る以前から、神様だけを信じ、仕えていたつもりでした。けれども、実際は神殿の中にまで、救いを施すことのできないあらゆる神々が存在していたのです。しかし、過越祭を守った後、霊眼が開け、忌まわしいものを一掃することができました。神様から第一の戒めを守り、真の神様だけに仕えたと認められたヨシヤ王も、過越祭を守らずには、真の神様と他の神々を見分けることができなかったのです。

わたしたちも同じです。救ってくださる神様を悟り、見分けるには、必ず過越祭を守らなければなりません。過越祭を守らずには、正しく神様を見分けることができず、救われない存在になるしかありません。

ではなぜ、過越祭を守ると、真の神様だけに仕えることができるようになるのでしょうか。

 

出エジプト記 12:11〜12 それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。 その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。

 

過越祭は、すべての神々が裁かれる日です。あらゆる神々がすべて裁かれれば、どなただけが残りますか。唯一、真の神様だけが残ります。ですから、過越祭こそが災いから救われ、天国に導かれる神様を正しく見分ける祭りであり、第一の戒めを完全に守ることのできる真理なのです。

 

→災いと過越祭