聖書は事実である~科学編~

2023-05-11
聖書は事実である-科学編

かつて、人間は無知な生き物でした。自分たちが生きているこの地球について、宇宙について、何の知識もありませんでした。しかし、現在は科学が発達し、様々なことが分かってきました。宇宙は人類が想像していたよりはるかに広大だということ。地球が宇宙空間に浮いていること、太陽が公転していること・・・ところが、聖書には、このような内容がはるか昔から既に記録されていました。聖書は、天地万物を創造なさった神様の記録であり、事実が記録されている書物です。

 

この人生の目的

皆この世に生まれ、それぞれの人生を一生懸命生き、死んでいく。果たして、この人生の目的は何でしょうか?子孫を残すことでしょうか?何のために?それとも、一度きりの人生、好き勝手に生きて、自分だけが幸せに生きれば、それでいいのでしょうか?しかし、これも何のために?そもそも、この人生に目的などないのでしょうか?

聖書では、この人生の目的が、故郷である天国に帰ることだと教えています。

ヘブライ人への手紙 11:13~16 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。・・・

この聖句の「この人たち」とは、前の聖句で言及されているアブラハムやモーセなどの、神様を信じていた信仰の先祖たちのことです。その信仰の先祖たちが、この地上では、自分は「よそ者」「仮住まいの者」であると公言していたとあります。この地球は、一時的に住んでいるだけの場所であり、本来の故郷は別にあるということです。そして、その故郷が彼らが熱望していた「天国」です。私たち人類の故郷は、この地球ではありません。故郷である「天国」に帰ること。それがまさにこの人生の真の目的です。

自分がこの地に生まれてくる前は、天国に住んでいたなんて信じられませんか?まず、聖書が信じるに値する本なのか、調べてみましょう。

 

聖書は事実である~科学を通して~

この世の中には、様々な宗教があり、様々な神々が崇められています。クリスチャンたちが信じ、ユダヤ人たちが信じている神様、聖書の神様とは、そもそもどのような神様なのかご存じですか。

創世記 1:1 初めに、天地を創造された。

聖書の神様とは、この天地万物を創造なさった神様、言わば、創造主の神様です。そんな突拍子もない内容をどうやって信じろと言うのかと思う方もいるでしょう。聖書の神様が、本当に創造主の神様であるならば、その証拠があるべきではありませんか。

証拠は聖書の中にあります。かつて、人間は無知な生き物でした。科学が発展する前、自分たちが生きているこの地球について、宇宙について、何の知識もありませんでした。しかし、聖書の神様が本当に、この天地万物を造ったのであれば、人間が知識を得る前に、宇宙について、地球について、当然知っているはずではないですか。聖書は、天地万物を創造なさった神様の記録であり、事実が記録されている書物です。

では、その証拠となる聖句をいくつか見てみましょう。

ヨブ記 26:7 神は聖なる山を茫漠としたさかいに横たわらせ大地を空虚の上につるされた。

ヨブ記の記録です。神様が「大地を空虚の上につるされた」とあります。この「大地」は、英語の聖書では「the earth」と書かれています。神様が「何もない空間に地球をつるされた」ということです。しかし、普通「つるす」とは、天井や棒など何かにひもや縄で下に垂らすことを言います。何もない空間に、地球がつるされた状態になっているというのは、つまり「地球が何もない空間に浮いている」ことを意味します。

地球が宇宙空間に浮いていることは、現代を生きる私たちにとっては何でもない常識です。しかし、このヨブ記は、今から約3500年前に記録されました。ヨブ記が記録された当時の人々、古代の人々にとっては、想像だにできなかった内容です。古代の人々は、「地球は必ず何かに支えられ、固定されている」と考えていました。地面の石ころ一つ浮かないのに、大地が浮いているとは思いもしなかったのです。コペルニクスが地動説を唱えたのが16世紀初頭、ニュートンが万有引力の法則を発見したのが17世紀半ばです。

なぜ人間の科学が発達する前、人類が知り得る前に、このような内容を記録することができたのでしょうか。それは、聖書がただ単に人間の手によって記録された本ではなく、創造主の神様の導きによって記録された本であり、事実が記録されている本だからです。

水の循環についての聖句も見てみましょう。

ヨブ記 36:27~28 神は水滴を御もとに集め霧のような雨を降らす。雲は雨となって滴り多くの人の上に降り注ぐ。

この聖句では、水の循環の仕組みがそのまま表現されています。「神は水滴を御もとに集め」というのは、地上の水が空中に上る様子(蒸発)を表しており、また、雲になり(凝結)、再び雨になって降ってくる(降水)という過程が、明確に叙述されています。では、人間はいつ水の循環について理解することができたのでしょうか。17世紀後半に、フランスのペロー(Pierre Perrault)、同じくフランスのマリオット(E. Mariotte)、またイギリスの天文学者ハリーの3人の研究によって明らかにされました。ヨブ記は、先述のとおり約3500年前に記録された聖書ですから、聖書には人間が知り得る3000年以上前に水の循環について記録されていたことが分かります。聖書は、創造主の神様の記録であり、事実が書かれている本なのです。

その他にも聖書には、宇宙の広さ(イザ40:13~17)や、太陽の公転(詩19:6~7)、地球の内核について(ヨブ28:1~5)など、様々な内容が記録されています。かつては人間の科学的知識が発達しておらず、ただの神話やファンタジーのような物だと思われていた聖書でしたが、聖書が信じるに値する本であることが、科学を通じてより分かるようになったのです。

 

新しい天と地

では、創造主の神様は、なぜ人類に聖書を下さったのしょうか?それは、私たちを新しい天と地に導くためです。

ヨハネの黙示録 21:1~4 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。・・・彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

ヨハネの黙示録には、新しい天と地の到来が預言されています。私たちは、この地に生まれる前は天国に住んでいました。しかし、天で罪を犯してしまったため、現在はこの地で仮住まいの生活を送っています(参照『罪の赦しの真理「過越祭」と救い主』)。そんな私たちのために、神様は私たちがもとにいた天国よりも更に素晴らしい天国を準備してくださっています。私たちが行く天国は、死がなく、悲しみも嘆きも労苦もない場所です。言い換えれば、喜び、楽しさがあふれ、永遠の命があるところです。

神様は、人類が信じることができるように様々な証拠を、聖書の中に記しておかれました。この肉体の人生が終わっても、魂の人生は続きます。私たちの魂が神様の御座の前で裁きを受けるとき、聖書に預言されている天国に入れるように、準備してください。この人生のまことの目的を悟り、互いに天国をしっかりと準備し、天の故郷で再会できることを、切に願っています。

 

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