青銅の蛇と十字架

2023-08-16
青銅の蛇と十字架

教会と言えば、多くの人々が十字架を思い浮かべるでしょう。いまや十字架は教会のシンボルになっています。しかし、神様の御心はどうでしょうか。神様は、わたしたちが十字架に対してどのようにすることを望んでおられるでしょうか。聖書の影の歴史を通じて偶像崇拝である十字架崇拝を捨てることが神様の御心であることを調べてみましょう。

 

十字架崇拝は偶像崇拝

実は、十字架は、初代教会にはありませんでした。A.D.313年にローマの皇帝であったコンスタンティヌスにより、教会が公認され、世俗化する中で入ってきたのが十字架です。

ベイカー神学事典 ₋いのちのことば社₋

十字架を公に使うことは、コンスタンティヌス帝の時代に、キリスト者が象徴として採用したことから始まった。

初代のキリスト者は、迫害という日常の経験としての恐ろしい事実に囲まれていたので、感情にとらわれて十字架を美化する危険はなかった。

このように、十字架が教会に導入されたのは、イエス様の時代から300年程後の時代です。本来はイエス様の教えになかったものが、後の時代に教会内に入ってきたのです。また、十戒の教えに照らし合わせて見ても、十字架を立てて仕えることが、神様が禁じられた偶像であることは明らかです。

出エジプト記 20章4~5節 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。

十戒の二番目の掟です。「いかなるものの形も」とあるので、イエス様が犠牲になられた処刑道具である十字架も当然この中に含まれます。十字架を造り、それに向かって祈ったり仕えたりすることは、十戒の二番目の掟に反する偶像崇拝に他なりません。

 

モーセのような預言者であるイエス様

キリスト教徒たちは、コンスタンティヌスの時代から1600年以上の間、十字架に向かって祈り続けてきました。このような現状を、神様はどのように思っておられるのでしょうか。また、神様がわたしたちに御望みになることは、何でしょうか。神様の御心を知るためには、やはり聖書を調べる必要があるでしょう。特に、イエス様の十字架の事件について明確に悟るためには、まず旧約のモーセの行跡を調べる必要があります。なぜなら、モーセとイエス様は預言と預言成就の関係にあるからです。

申命記 18章17~18節 主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。

ここで「あなた」はモーセを指しています。神様が、民のために将来モーセのような預言者を立てると約束してくださいました。では、将来立てられるモーセのような預言者とはどなたのことでしょうか。この預言成就の内容を新約聖書で確認してみます。

使徒言行録 3章20~22節 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。

使徒パウロは、イエス様が、預言に従ってこの地に来られたモーセのような預言者であると証ししました。モーセとイエス様は預言と預言成就の関係にあります。旧約のモーセの行跡は、将来来られるイエス様の行跡についての預言になっているのです。

モーセの青銅の蛇事件とイエス様の十字架事件

イエス様の十字架の犠牲により、わたしたちに救いがもたらされました。ヨハネによる福音書では、その十字架の犠牲について、モーセの青銅の蛇の事件を挙げて説明しています。

ヨハネによる福音書 3章14~15節 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

「イエス様が十字架に上げられ、信じる者が永遠の命を受けること」を、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」と表現しているのは、まさにモーセの青銅の蛇の事件が、イエス様の十字架の犠牲をあらかじめ見せていた預言、影の出来事だからです。では、実際に青銅の蛇の事件の内容を見てみましょう。

民数記 21章4~6節 彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。

カナンに向かう荒れ野生活に耐えられなくなったイスラエルの民は、神様に恨み言を言うという罪を犯してしまいました。それに対して神様が憤り、炎の蛇を送られ、多くの死者が出るという事件が起こりました。遅ればせながら悔い改めたイスラエルの民は、モーセと神様に赦しを乞い、生きる方法を教えていただきます。

民数記 21章7~9節 民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

炎の蛇にかまれて死に行く者でも、旗竿の先に掲げられた青銅の蛇を仰ぎ見れば、命を得ることができました。この青銅の蛇の事件が、イエス様が十字架で成される救いに対する預言、影なのです。青銅の蛇を仰ぎ見ることによって、死に行くイスラエルの民が命を得たように、イエス様が十字架に上げられたことにより、わたしたちは救われ、永遠の命の約束を得ました。

ここで、考えてみなけらばならないことがあります。イスラエルの民が救われたのは、青銅の蛇自体の能力によるものだったのかということです。青銅の蛇自体に何か特別な能力があったわけではなく、「青銅の蛇を見上げれば、命を得る」と言われた神様の御言葉により救われたのです。しかし、イスラエルの民は、目に見える青銅の蛇を長い間崇拝することになります。

列王記下 18章3~4節 彼は、父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行い、聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、このころまでこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである。

ここで「彼」とは、ヒゼキヤ王のことです。モーセの時代から800年もの長い間、イスラエルの民は、青銅の蛇を神様の神殿に祀っていました。その青銅の蛇をヒゼキヤ王が打ち壊したことを、聖書ではどのように表現していますか。「主の目にかなう正しいこと」とあります。神様の御言葉で救われたのにも関わらず、民たちは偶像崇拝を禁ずる神様の掟に反し、目に見える青銅の蛇を祀っていました。それで、神様は、青銅の蛇を打ち壊したヒゼキヤ王を喜ばれたのです。また、民たちが青銅の蛇を「ネフシュタン」と呼んでいたとありますが、「ネフシュタン」とは「銅のかけら」という意味です。青銅の蛇は、結局何の能力もない単なる銅のかけらであり、偶像であったのです。

旧約のモーセの青銅の蛇の事件は、イエス様が十字架で成される救いについての預言です。イスラエルの民たちが、青銅の蛇を長い間崇拝していた歴史も、やはり預言であり影の歴史です。  神様の御言葉により救われたのにも関わらず、神様の掟に反し、目に見える青銅の蛇を崇拝した歴史は、今日のクリスチャンたちの行いそのものです。わたしたちが救われたのは、十字架そのもののおかげではありません。十字架で流されたイエス・キリストの犠牲の血により、救われたのです(エフェ1:7)。しかし、イエス様がその犠牲の血によって立てられた過越祭は、すっかり忘れらて、今日のキリスト教徒たちの目は十字架に注がれています。青銅の蛇が何の能力もない青銅のかけらに過ぎなかったように、十字架も何の能力もない木片に過ぎません。

では、神様がわたしたちに望まれることは何でしょうか。ヒゼキヤ王のような信仰を持たなければなりません。ヒゼキヤ王が800年続いた青銅の蛇崇拝を打破したように、いまや1600年以上続いてきた十字架崇拝を打破しましょう。そうしてこそ、「主の目にかなう正しいことをした」と神様に喜んでいただけるわたしたちになることができるのです。