食べ物に関する掟
2023-03-06
世の中には様々な宗教があり、キリスト教の中にもたくさんの宗派があります。食べ物に関する掟も様々です。イスラム教では豚を、ヒンドゥー教では牛を食べることが禁じられていることをご存じの方も多いと思います。では、キリスト教において、食べ物に関する掟はどのように制定されているでしょうか。
新約時代の食べ物に関する掟
初代教会当時、ある人々が「異邦人の聖徒たちにモーセの律法(旧約の律法)を守らせるべきだ」と主張し、騒ぎを起こしたことがありました。それについての使徒会議が開かれ、次のような決議が下されました。
使徒言行録 15:28~29 聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」
旧約時代にエホバ神様が定めてくださったモーセの律法には、清いものと汚れたものに関する規定がありました。しかし、新約時代には「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉」を避ければ、それ以外の物は、気にせず食べてもいいという決定が下されたのです。「聖霊とわたしたちは」とありますので、聖霊が介入なさった決定に誰が異論を唱えることができるでしょうか。
旧約時代の食べ物に関する掟
実は、神様は時代によって、異なる食べ物の掟を定められました。最初の人であるアダムとエバの時代には、菜食を命じられました(創1:29)。ところがノアの時代、洪水の後には、動いている命あるものも、青草と同じように食べてもよいと仰せになりました(創9:3)。洪水以前には、禁じられていた肉食が許されたのです。しかし、モーセの時代には、また新たな掟をくださいました。以前は区別なく食べることを許されていたものが、清いものと汚れたものに分けれたのです(レビ11:1~3)。それまで食べることができていた豚や野兎は、汚れたものとされ、食べることは勿論その死骸に触ることも禁じられました。
このように、神様は時代によって、異なる掟を定められました。これまで一度も口にしたことがなかったものが、食べられるようになったり、以前までは何の問題もなく食べていたものが、禁じられたりしたのです。これは、人間の考えを以ってしては到底理解しがたいことです。しかし、全知全能であられる神様の御考えは、人間の考えを遥かに超越しておられます。
イザヤ書 55:8~9 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なりわたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。
たとえ人間の考えでは、理解しがたい御言葉であったとしても、わたしたちがあれこれ思いをめぐらせながら、自分たちの考えを述べる必要はありません。時代によって異なる食べ物の掟をくださったのにも、神様の御考えがあります。すべては、創造主であられ全知全能であられる神様の御計画のうちにあるからです。神様を信じている者であるならば、神様が今この時代にくださった掟を従順に守ればよいのです。
悪霊どもの教え
この食べ物に関する掟について、人間の考えで判断してしまうという過ちのために、神様の御言葉のままに従うことができずにいる宗派もあります。「神様はそう仰るが、むしろこうした方が喜んでくださるだろう」「聖書にはこう書いてるが、きっとこうした方が神聖なはずだ」しかし聖書では、このような考えは、惑わす霊と悪霊どもの教えだと警告しています。
1テモテへの手紙 4:1~4 しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており、結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。
惑わす霊と悪霊どもの教えに心を奪われた者が、偽善によって、「結婚を禁じたり」「ある種の食物を断つことを命じたり」すると預言されています。一見、人間の考えでは、結婚をしない方がより神様に神聖に仕えているように思えたり、菜食主義である方がより柔和そうで清らかに見えたりするかもしれません。しかし、聖書の教えと照らし合わせて見れば、それらは間違いなく悪霊の教えなのです。 神様の御言葉には、何一つ付け加えても、取り去ってもいけません。
ヨハネの黙示録 22:18~19 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。
聖書は、最後にこの御言葉によって締めくくられています。決して人間の考えで、神様の御言葉に「付け加えたり」「取り去ったり」してはいけないのです。付け加えり、取り去ったりしてしまえば、その者は災いを受け、天国を失うことになります。食べ物の掟についても、今この時代を生きる私たちは、使徒言行録の御言葉のように「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉」を避ければ、それ以外は気にせず感謝して食べればいいのです。
神様は人類を救いに導くために、また祝福にあずからせるために聖書を下さいました。人間の考えではなく、聖書に何と書かれてあるのか確かめて、神様の御心を知りましょう。そして、神様からの祝福をふんだんに受けて、救いにあずかる者になりましょう。
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