麦と毒麦のたとえ
2023-04-06
畑に生える、農作物にそっくりな姿の植物を「擬態雑草」と言います。擬態雑草は、作物にあまりにもよく似ていて、見分けがつかないため、農夫が気づかぬうちに作物の根を絡め取り、畑いっぱいに繁殖し、生長を妨げます。擬態雑草は、その名のとおり雑草です。作物のように実をつけることはありません。ですから、農夫はその存在を決して喜びません。
イエス様は、作物と擬態雑草の関係を通して、真の教会と偽りの教会、そして、この世の終わりまでを知らせてくださいました。作物である「麦」と擬態雑草である「毒麦」のたとえ話を調べてみましょう。
「麦」と「毒麦」のたとえ
マタイによる福音書 13:24〜30 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
農夫が良い麦の種を蒔いて眠った後、敵が畑に毒麦を蒔きました。毒麦は繁殖力が強いので、放っておくと毒麦畑になってしまいます。しかし畑の主人は、刈り取るときまで育つままにしておいて、刈り入れるとき、毒麦は集めて焼き、麦は集めて倉に入れるよう命じました。ところで、毒麦の種は、いつ蒔かれたのでしょうか。農夫が種を蒔いた後、人々が眠りについてから毒麦が蒔 かれました。
これは天国についてのたとえだと言われ、続けてその意味を教えてくださいました。
マタイによる福音書 13:36〜43 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」
良い種を蒔く方はイエス様。畑として表されたこの世に、真理の種を蒔かれました。イエス様の蒔かれた真理を守る者は、良い種である御国の子ら、つまり救われて天国に入る者だと言われました。毒麦を蒔いた敵は悪魔。悪魔の蒔いた教えを行う者は悪い者で、不法を行う者であり、世の終わりには集められ焼かれると言われました。この不法である毒麦は、人々が眠りについてから蒔かれました。聖書では死を眠りとも表現しています。
ヨハネによる福音書 11:11〜14 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
「人々が眠りについてから」とは、真理を立てられたイエス様と、その教えを直接聞き、守っていた弟子たちがこの世を去った後という意味です。イエス様は、2000年前この地に来られて、麦の種である真理を蒔かれ、弟子たちもそのとおり守っていましたが、彼らが世を去った後に、悪魔が天国に入ることのできない毒麦を世界中に蒔き、この世から神様の教えを無くしてしまい、毒麦畑にしてしまいました。真理どおり行う正しい教会ではなく、不法を行う偽りの教会ばかりになってしまったのです。
天使が刈り入れるときとは、今のこの時代を指しています。終わりの時代を生きるわたしたちは、正しい教えを守り行う教会に行き、イエス様の教えどおりに行わなければ、天国に向かうことができません。では、何を行うことが正しい教えを守ることなのでしょうか。
イエス様と弟子たちが守った麦の真理
天国に入る御国の子らは、イエス様の教えを行う者たちです。ですから、わたしたちもイエス様の教えどおり、また、その教えを守り行った弟子たちと同じように行ってこそ、麦の真理を守る者となります。
エフェソの信徒への手紙 2:20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、
イエス様と弟子たちは安息日を守りました。
ルカによる福音書 4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
本来、イエス様は神様であられるので、安息日をお守りになる必要はありません。ですが、わたしたちへの模範として、安息日を守られました。その模範に倣い、イエス様昇天後も、弟子たちは安息日を守りました。
使徒言行録 17:2〜3 パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、 「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。
このように、麦の真理には安息日礼拝があります。安息日礼拝は、A.D.321年に日曜休業令が発布され、日曜礼拝へと変更されました。ですから、日曜礼拝はイエス様の教えでなく、後からやってきた敵が蒔いた毒麦、偽りの教理です。
イエス様と弟子たちは過越祭を守りました。
ルカによる福音書 22:7〜20 過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。… イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。 …それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。
弟子たちは、イエス様が守ることを切に願われた過越祭を、その死を記念する祭りとして守りました。
コリントの信徒への手紙一 11:23〜26 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
この過越祭がA.D.325年に廃止され、A.D.354年にはクリスマスが導入されました。過越祭こそが麦の真理であり、クリスマスは後から蒔かれた偽りの教理です。
麦の真理にはベールの掟があります。
コリントの信徒への手紙一 11:1〜6 わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。… ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。 男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。 女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。 女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。
麦の真理には、ベールの掟があります。祈るときや礼拝をささげるとき、男性は何も被ってはならず、女性はベールを被らなければなりません。
麦の真理の教会は五旬祭を守りました。
使徒言行録 2:1〜4 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
麦の真理の教会は仮庵祭を守りました。
ヨハネによる福音書 7:2〜39 ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。… 祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。… 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
安息日、過越祭、ベールの掟、五旬祭、仮庵祭このすべてが麦の真理であり、このすべてを守り行う教会こそが、真理の教会です。毒麦は麦にそっくりで、育つまでは見分けることがとても難しい擬態雑草です。真理の教会と偽りの教会も、わたしたちは見た目では見分けることができません。ですが、正しく悟らなければ、その行く先は燃え盛る炉だと言われました。
真理の教会に来て、イエス様の教えを守り、天の倉に入られることを願います。
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