救い主と新しい名、安商洪様

2020-09-28
救い主と新しい名、安商洪様

救い主の名の重要性

神様の救いの歴史を詳しく調べてみると、なぜ救い主の名が重要なのか理解できる。私たちの救いのために、神様は聖父時代、聖子時代、聖霊時代、この3つの時代を制定された。時代ごとに神様は「異なる名前の救い主」として登場される。この時代の救いは、この時代の救い主を知っているかどうかにかかっている。単に「神様」という一般的な称号を呼ぶだけでは不十分である。聖書はこのような内容について正確に教えてくれている。

神様は救い主の名に期限を定められた

コヘ3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

この世のすべての事には目的があるように、私たちが神様を信じることにも目的がある。

私たちはこの世で生きている間、時空間の制約を受ける。このため、聖書は何事にも目的を果たすべき時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時、期限があると教えている。すべての事が時間の制約を受け、すべての事には始まりと終わりが存在する。私たちの信仰生活も同じだ。神様は救い主の名前についても期限を定められた。

時間の制約を受けるすべての活動には特定の目的がある。例えば、教育を受けて大学に通うのは学位を取得するためだ。そうして学位を取得するのは、よい職に就くためであり、よい職に就こうとするのはお金を稼ぐためである。そして、家族を扶養したり、その他いろいろな目的のためにお金を稼ぐ。この世のすべての出来事に目的があるように、私たちが神様を信じることにも目的がある。

一ペト1:8-9 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

聖書では、神様に対する信仰の究極的な目的は、救いを受けることだと述べている。救いを受けるためには救い主の名を知ることが絶対条件だ。

時代別の救い主の名

神様は救いの御業を3つの時代に分けられ、時代ごとに異なる救い主の名を下さった。

マタ28:19-20 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(浸礼)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

聖書によると、3つの時代は聖父時代、聖子時代、聖霊時代である。聖三位一体をもとに考えてみると、お一人の神様が、異なる3つの名前を用いて、3つの役割をなさるということが理解できる。聖父時代には父の役割をなさり、聖子時代には子の役割をなさり、聖霊時代には聖霊の役割をなさるというわけだ。

神様がそれぞれ異なる役割をなさる時、異なる救い主の名を用いられる。これこそイエス様が「父と子と聖霊の名によって浸礼を授けよ」とおっしゃった理由だ。イエス様の御言葉は、父の名、子の名、聖霊の名があることを意味する。

聖霊に名前があるということを知っている人はあまり多くない。またある人は、救い主の名は一つだけだと考えている。イザヤ書と使徒言行録の対になっている御言葉を通じて、なぜこのような誤解が生ずるのか理解してみよう。

イザ43:11 わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。

(文語訳:ただ我のみ我はヱホバなり われの外にすくふ者あることなし)

聖父時代の救い主の名はエホバだった。エホバだけが唯一の救い主だと言われた。新約聖書では使徒パウロも救い主について証ししている。

使4:11-12 この方(イエス・キリスト)こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。

イザヤ書では「エホバが唯一の救い主」だと言われた。だが、聖子時代になって使徒パウロは「唯一の救い主はイエス様であり、救われるべき名はこの名のほか与えられていない」と記した。ある箇所ではエホバが唯一の救い主だと言い、他の箇所ではイエス様が唯一の救い主だと言っているため、まるで聖書が矛盾しているように見えるだろう。

だが実は何も矛盾していない。神様の救いの御業に設けられた時代の期限について理解すれば、完璧に理にかなっていることが分かる。

イザ9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子(息子)がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

預言者イザヤは、救い主の名がエホバだった聖父時代に生きていた。彼は父なる神様であるエホバが、男の子として生まれると預言した。それがまさにイエス·キリストだ。神様が人の姿で来られて、救いの御業を始められたことで、父の役割を終えられ、子の役割を始められたのだ。つまり聖父時代が終わり、聖子時代が始まったのだ。時代が変わり、救い主の名も変わった。救い主の名はもはやエホバではなく、イエスになったのだ。これは救い主の名に期限があることを意味する。

一つの時代が終わると、救い主の名の期限も切れる。人々はもはやその名を通じて救いを受けることはできない。聖父時代の間、人々が救いを受けられる名は、唯一エホバだけだった。しかし、聖父時代が終わったので、エホバという名の期限が切れ、人々はもはやその名で救いを受けられなくなったのである。

このような理由で、使徒パウロは、「わたしたちが救われるべき名は、イエスという名のほか、人間には与えられていない」と自信を持って言ったのだ。彼は父の名が期限満了し、子の名が使われる時代が始まったという期限の概念を理解した。

救い主の新しい名、安商洪

今、私たちが生きている時代は、聖父時代でもなく聖子時代でもない。聖霊時代に生きている。神様は聖霊の役割をしておられるので、救われるためには、必ず聖霊の名を知らなければならない。大多数の人はイエスという名がこの時代の救い主の名だと考えている。しかし、聖子時代の救い主の名であるイエス様の名は、聖子時代が終わることで、その期限も切れた。イエス様は聖霊時代に新しい名を持って、再び救い主として来られると宣言された。

黙3:11-13 わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』

イエス様は再び来られる時、新しい名を持って来られることを明らかにされた。これは神様の民が救い主の新しい名を通じて救いを受けるべき聖霊時代の到来を意味する。新しい名は救い主がこれまで使ったことのない名でなければならない。エホバ、イエスという名はすでに使用されたため、新しい名にはなれない。聖霊は新しい名を受ける方法について教えてくださった。

黙2:17 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。」』

聖霊は「白い石」を受ける者だけが、新しい名を知ることができると言われた。聖書の中で「石」が何を表しているのかを理解することは非常に重要だ。聖書は多くの御言葉を通じて石について言及している。

一ペト2:4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。

使4:11 この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。

聖書の中で「石」はキリストを象徴している。したがって、ヨハネの黙示録2:17は、キリストが新しい名を持って来られることを表している。ヨハネの黙示録はAD97年頃に記録された。したがって、ここで言及されたキリストは再臨のキリストである。新しい名を受けるためには、隠されていたマンナを持って来られる再臨のキリストを必ず受け入れなければならない。

再臨のキリスト安商洪様とマンナ

真の聖霊と新しい名を見分けることができるように、聖書は聖霊が隠されていたマンナを持って来られると述べている。隠されていたマンナを私たちに下さる方が、聖霊時代に救いを下さる新しい名の救い主だ。

ヨハ6:49-51 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。

聖書では、マンナはイエス様の肉を象徴している。イエス様の肉にあずかるためには、必ず新しい契約の過越祭を守らなければならない。

マタ26:17、26-28 除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。…一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

イエス様は2千年前、初めて新しい契約の過越祭を通じて使徒たちにマンナを下さった。しかし、この過越祭はAD325年のニカイア宗教会議で廃止され、世の中から隠されてしまった。1948年、キリスト安商洪様が、罪の赦しを与える神様の祭りとして、新しい契約の過越祭をもう一度立ててくださった。したがって、キリスト安商洪様はヨハネの黙示録2:17の預言を成就された聖霊であられる。この名こそが、まさにこの聖霊時代、私たちが救いを受けることのできる救い主の名である。

神様の教会は新しい名であるキリスト安商洪様を、この時代の救い主の名として信じている。それゆえ、私たちは安商洪様の名で祈り、この名を伝えている。聖書が安商洪様を証ししているからだ。さらに詳しく勉強すれば、救い主の新しい名について固い確信を持つことができ、安商洪様を通じて救いを受けることができる。

ヨハ5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたし(キリスト)について証しをするものだ。