天国の婚宴の花嫁

天国の婚宴の花嫁

婚宴はとてもおめでたい門出の日です。
イエス様の時代、婚宴が開かれることが決まると町中に周知され、その知らせを聞いた人誰もが集まる、町を挙げて行われるお祝い事でした。

そのように、なによりもおめでたい席であるため、イエス様は婚宴を、救われて天国に入ることの譬えとして教えてくださいました。

ですが、ただ慶事として婚宴を天国と譬えられたのでしょうか。
ここには、誰も知り得なかった、永遠の命をくださる天の母の存在を知らせようとなさった、神様の御心が込められていました。

婚宴の花嫁として、終わりの時代に登場される天の母について、調べてまいりましょう。

 

天国は婚宴を催したのに似ている

2000年前、イエス様は婚宴の譬えを話されました。

イエスは、また、たとえを用いて語られた。 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。

マタイによる福音書22章 1~10節

王が王子のために催した婚宴を通じて、たくさんの人々が救われることが描写されていますが、ここで婚宴を行う王子とはどなたでしょうか。

天国の譬えの中の王は神様を表します。
ですから、王子はイエス様です。

つまり、イエス様が開かれる婚宴に参加してこそ、天国に入ることができます。

それならば、イエス様がこの譬えを話された当時、婚宴は開かれたのでしょうか。実は、この婚宴は2000年前には開かれませんでした。

なぜなら、婚宴の準備が整っていなかったからです。

婚宴が開かれるためには誰がいなければなりませんか。
婚宴の主役である、花婿と花嫁。
そして、その婚宴を証しする招待客が必要です。

ですが、イエス様が教えてくださった譬えの中には、

婚宴を催される花婿である王子と、
婚宴に招かれた招待客しかおらず、
婚宴の花である「花嫁」は言及されていません。

では、天国の婚宴には花嫁はいないのでしょうか。
いえ、そもそも花嫁がいないのであれば、婚宴として譬えられる必要がありません。

ですから、花嫁は必ず登場し、婚宴が開かれます。

花嫁はいつ登場されるのでしょうか。

花嫁の登場がなければ婚宴が開かれないため、わたしたちは花嫁の登場を聖書で調べ、来るべき花嫁を迎える準備をしなければなりません。

なぜなら、婚宴がわたしたちの救いと直結しているからです。

 

終わりの時代に登場される花嫁、天の母

聖書は、花嫁が6000年の救いの御業の最後、終わりの時代に登場されると教えています。
ヨハネの黙示録でその答えを確認してみましょう。

イエス様がヨハネに見せられた預言の中に、2000年前に話されたときにはいなかった花嫁が登場しています。

わたしたちは喜び、大いに喜び、
神の栄光をたたえよう。
小羊の婚礼の日が来て、
花嫁は用意を整えた。
花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。
この麻の衣とは、
聖なる者たちの正しい行いである。」
それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。

ヨハネの黙示録 19章7~9節

ここで小羊と共に花嫁がついに来られ、

婚宴を催される花婿である小羊と、
婚宴の花である花嫁と、
婚宴を証しする招待客とが揃い、待ち望んだ婚宴が催され、救いの道が開かれました。

小羊はイエス様を表します。ですが、黙示録で婚宴を開かれるイエス様は、初臨のイエス様ではなく、終わりの時代、2度目にこの地に登場される再臨のイエス様です。なぜなら、2000年前、初臨のときに現れなかった花嫁と共に登場されているからです。

その小羊、終わりの時代に来られる再臨のイエス様と共に登場される花嫁はどなたでしょうか。

さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。」この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。

ヨハネの黙示録 21章9~10節

イエス様の婚宴の譬えの花嫁の姿を、ヨハネはやっと見ることができました。ですが、ヨハネが見たその姿は、天から下ってくるエルサレム神殿でした。

これは、言葉通りエルサレム神殿が小羊の妻ということでしょうか。

小羊はイエス様を譬えています。
であるならば、小羊の花嫁であるエルサレム神殿も、同様にどなたかを譬えていると考えるのが自然ではありませんか。

他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。

ガラテヤの信徒への手紙 4章26節

天のエルサレムとして象徴された小羊の花嫁は、わたしたちの母だと教えています。

「わたしたち」と呼ばれる救われる聖徒には、天に母がいて、その天の母が、終わりの時代に降りてこられると預言されました。

つまり、天におられた母なる神様がこの地に登場されるという意味です。

母を花嫁とされる方は、わたしたちの父です。

終わりの時代に、天の父と天の母が天国の婚宴を催してくださり、この婚宴を通して救われる聖徒になることができることを、聖書は明確に証ししています。

“霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。

ヨハネの黙示録 22章17節

小羊と登場した花嫁がここでは“霊”と共に現れますが、“霊”もやはり聖霊神様であられる天の父を表します。

天の父と天の母は「婚宴に来てください」と人類を呼ばわれました。

そして、婚宴に参加した者に魂を生き返らせる命の水を下さり、天国へと導いてくだいます。

ですから、終わりの時代のわたしたちは必ずこの婚宴に参加して、命の水を受けなければなりません。

では、どうすればこの婚宴に参加できるのでしょうか。

招待客は婚宴を証しする者です。
それはつまり、花婿と花嫁を知る者です。

ですが、人類は終わりの時代に天の母が来られるという事実はもちろん、天の母の存在すら知りませんでした。

そんな中で、どのように天の母を知ることができるのでしょうか。

 

アダムとエバは天の父と天の母を知らせる預言

アダムは来たるべき終わりの時代に来られるキリスト、つまり天の父を表しています。

しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。

ローマの信徒への手紙 5章14節

ですから、アダムとエバの歴史は、天の父によって、天の母が証しされることを知らせている預言です。

この預言の通り、終わりの時代に来られた天の父、安商洪様が天の母を証しされ、婚宴の花嫁をわたしたちに教えてくださいました。

そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、 人は言った。 「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

創世記 2章 22~23節

アダムはエバを「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」といいました。
つまり、アダムはエバを自分と一つの体だと証ししたのです。

アダムがエバを自分と一つであると言ったように、天の母も天の父と共に天におられた真の母なる神様であられ、その方が婚宴を開かれるために天から降りてこられました。

また、アダムは自分の妻を名付けています。

アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。

創世記 3章20節

アダムが妻をエバと名付けました。
「エバ」とはヘブライ語で「命」という意味です。
エバがすべて命あるものの母となったとはどういう意味でしょうか。

エバを命と名付けた歴史は、天の母がわたしたち人類に永遠の命をくださる花嫁であることを教えてくださる預言です。

言い換えれば、誰であっても天の父と天の母が催される婚宴に参加しないなら、永遠の命を受けることはできないという意味です。

花嫁であられる天の母は婚宴の準備を整えて、天の父の証しを受けられ、既にこの地に登場され、「来てください」と人類をお呼びになっておられます。