災いが過ぎ越す、神様の刻印

災いが過ぎ越す、神様の刻印

地球温暖化が叫ばれて久しい今日、世界中での様々な異常気象や、新たなウイルスの登場など、わたしたちは災いと背中合わせに生きています。

そういった中で、わたしたち人間に出来ることは何でしょうか。
わたしたちは災いを予見することもできず、目に見えない病原体を避けることもできません。

聖書は神様の刻印、つまり、災いを免れるしるしを急いで受けなければならないと教えています。
神様の刻印とは何を指すのか、どうすれば刻印を受け、災いから保護を受けることができるのか調べてみましょう。

神様の民に押される刻印

この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた。 わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、 こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」

ヨハネの黙示録 7章1〜3節

天使が大地の四隅に吹く風を抑えていますが、ここで手を離せば、大地も海も木も損なわれるとあります。

これは、大地の四隅、つまり世界レベルの災いが起こることを預言しています。

そして、いつかは離すために今は抑えています。

「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」

ヨハネの黙示録 7章3節

神様が民の額に刻印を押される理由は何でしょうか。天使が手を離したとき起こる大災害から免れさせるためです。

その刻印がすべての民に押されれば、天使は手を離し、風が放たれてしまいます。
その時、刻印のない者はどうなるのでしょうか。

主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」…老人も若者も、おとめも子供も人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、わたしの神殿から始めよ。」彼らは、神殿の前にいた長老たちから始めた。
エゼキエル書 9章4~6節

刻印のない者は災いに遭い、滅ぼされる対象となります。
ですが、神様はわたしたち皆が、刻印にあずかるよう願っておられます。

…一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。 主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。

ペトロの手紙二 3章9~10節

地上で造られたものが消え失せ、熔け尽くされてしまう日が来ると言われました。地上のものすべてが滅びるこの内容は、四隅の天使が手を離したことを意味します。
わたしたちは最後の災いの目前にいます。
けれども、神様は一人も滅びないで、皆が救われるよう願われています。
ですから、わたしたちは急いで神様の下さる刻印にあずからなければなりません。

では、どうすれば神様の刻印を受けることができるのでしょうか。

刻印として来られたイエス様

神様の刻印とは、神様から認められた者に付けられる印です。
その印を受けられ、この地に来られた方がイエス様です。

朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。

ヨハネによる福音書 6章27節

イエス様は神様から認証され、印を受けられました。
そして、わたしたちがどうすれば、その印を受けることができるのかを教えてくださいました。

イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。

ヨハネによる福音書 6章53〜56節

イエス様の肉と血を食べて飲めば、イエス様がわたしたちの中におられ、わたしたちもイエス様の中にいることができ、一つになることができます。

その方法が、新しい契約の過越祭です。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

マタイによる福音書 26章26〜28節

過越祭のパンはイエス様の肉を表し、ぶどう酒は血を表します。
わたしたちが過越祭を守り行えば、刻印を受けられたイエス様と一つになり、災いから免れることができます。

過越祭は、すべての人類が、神様の保護にあずかることができ、来たる大災害からわたしたちを護ってくださる、神様の深い愛が込められた真理です。

過越祭は災いが過ぎて越す、神様の刻印

なぜ過越祭を守れば、災いから護られるのでしょうか。
過越祭の中に、神様がその約束を込められたからです。

あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。

出エジプト記 12章13節

これは3500年前、モーセの時代に、神様が過越祭を定められた場面です。

エジプトの地の、すべての初子を滅ぼす災いが下されたとき、過越祭を守ったイスラエルの民は、神様が「災いはあなたたちに及ばない」と約束された通り、その災いが過ぎて越し、救われました。

祭りの名前も「過越祭」とされ、守る者は必ず災いが過ぎて越す、神様の刻印であることを教えてくださったのです。
この約束はモーセ当時だけの話ではなく、いつの時代であっても等しく成就されます。

モーセの時代から約800年過ぎた、ヒゼキヤ王の時代であっても、過越祭を守れば災いが過ぎ越し、護られました。

ヒゼキヤはすべてのイスラエルとユダに使者を遣わし、またエフライムとマナセには書簡を送り、エルサレムの主の神殿に来てイスラエルの神、主のために過越祭を行うように呼びかけた。

歴代誌下 30章1節

当時のイスラエルは、北側のイスラエル王国と、南側のユダ王国に二分されていました。
その時、南ユダ王国のヒゼキヤ王は、過越祭の重要性を悟り、北イスラエル王国にも共に守るよう呼びかけました。

けれど、北イスラエル王国は、過越祭に込められた神様の御力を悟れず、守りませんでした。

急使はエフライムとマナセの地を町から町へと巡り、ゼブルンまで行ったが、人々は彼らを冷笑し、嘲った。

歴代誌下 30章10節

エフライム、マナセ、ゼブルンは北イスラエル王国の都市です。ヒゼキヤ王が伝えましたが、結局、北イスラエルは過越祭を守らず、南ユダ王国だけが守りました。

それから数日後、強大国アッシリアが、両国を侵略してきました。
それぞれの国はどのような結果を迎えたのでしょうか。
まず、北イスラエル王国について調べてみます。

ヒゼキヤ王の治世第四年、イスラエルの王、エラの子ホシェアの治世第七年に、アッシリアの王シャルマナサルがサマリアに攻め上って来て、これを包囲し、 三年後に占領した。サマリアが占領されたのは、ヒゼキヤの治世第六年、イスラエルの王ホシェアの第九年であった。 こうなったのは、彼らが自分たちの神、主の御声に聞き従わず、その契約と、主の僕モーセが命じたすべてのことを破ったからである。彼らは聞き従わず、実行しなかった。

列王記下 18章9〜10‭,12節

サマリアは北イスラエル王国の首都です。
首都がアッシリアに占領されたことにより、結果、北イスラエル王国は、歴史の舞台から姿を消すこととなりました。

その理由は、主の御声に聞き従わず、契約を破った、つまり過越祭を軽んじ守らなかった故と言われました。

その後、アッシリアは南ユダ王国に攻め寄りました。
では、過越祭を守った南ユダ王国はどうなったのでしょうか。

ユダの家の中で難を免れ、残った者たちは再び根を下ろし、上には実を結ぶ。 エルサレムから残った者が、シオンの山から難を免れた者が現れ出る。万軍の主の熱情がこれを成就される。 それゆえ、主はアッシリアの王についてこう言われる。彼がこの都に入城することはない。またそこに矢を射ることも、盾を持って向かって来ることも、都に対して土塁を築くこともない。 彼は来た道を引き返し、この都に入城することはない、と主は言われる。 わたしはこの都を守り抜いて救う。わたし自らのために、わが僕ダビデのために。」 その夜、主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。

列王記下 19章30〜35節

神様の御使いが、アッシリアの陣営を撃ち、南ユダ王国は戦うことなく勝利し、その命を維持することができました。

北イスラエル王国と南ユダ王国の違いは、ただひとつ、過越祭を行ったかどうかです。
ですが、その結果は、大きく明暗を分けました。

これは、過越祭はいつの時代であっても、神様が守り抜いてくださり、災いが過ぎて越すようにしてくださる、神様の刻印だという証しです。

では、災いを目前にして生きるわたしたちはどうするべきでしょうか。

聖書の歴史はわたしたちへの教訓

かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。

ローマの信徒への手紙15章4節

聖書の歴史は、今の時代のわたしたちへの教訓です。

モーセの時代に、エジプトに下される災いを免れた歴史も、ヒゼキヤ王の時代に、南ユダ王国を熱情を持って神様が護られ災いを免れた歴史も、わたしたちを来たる災いから救われる神様の刻印が、過越祭であることを教えています。

わたしたち人間の力では不可能なことも、神様の御力に頼れば、すべてが可能です。

ヒゼキヤ王が、南北すべての民が守ることを願い、伝えたように、今日のわたしたち神様の教会は、すべての人々が過越祭を守り、神様の刻印を受けられるよう願い、お待ちしています。

→新しい契約の過越祭